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スローフードジャパン 全国大会(2)

予告しておりました スローフードジャパン 全国大会の2部目の講演について紹介します。

Dscn7679_2「島村菜津先生の格調高いご講演のあと、僕の話しは眠くなるような話しです」と始まった奈良文化財研究所 馬場基(はじめ)さんの講演。

1972年生まれの馬場さんは「青丹よし寧楽の都の食事情 ー平城京・京出土木簡の様子からー」というタイトルで、スライドと笑いを豊富に交えたお話しをお聴かせくださいました。

木簡って、昔の人が墨書した木の付け札のことで、遺跡から発掘されたとき、そこに書かれていることで当時の暮らしの様子がわかるのだそうです。食べ物のことも、腹痛のことも、戦の裏事情も、木簡に書かれていたとのこと。

下の写真にタテに写っている木の細い板が「木簡」です。私は、馬場さんの予告どおり、途中で居眠りをしてしまいました。
「のどかさん、豆です。豆ですよ」と、めぐりんさんに起こされ‥‥

Dscn7673Dscn7676写真左/ささげ
小豆のように見える赤い粒は、今でもお赤飯に使ったりする「ささげ」です。穀物として豆を数えるときは容積で表わし、野菜(豆の横に見える葉っぱ)として数えるときは「10束」みたいに束で数えていたことが、木簡からわかったとのこと。

写真右/稲
都(平城京)では白米が食べられており、租(そ/タチカラ)として赤米や酒米が納められたとか。
その土地で最初に穫れた食べ物を神に捧げることが租の始まりで、神=支配者のところに納められるようになっていった、でしたっけ? 初穂料とは、そんなところからきている?
「御田」「大御飯米」「精租」「生租」うんぬん、かんぬん、いろいろ聴いたのですが、難しいのと眠いので、今ひとつ、うろ覚えです。。。 馬場さん、スミマセン。


Dscn7669
出土品や木簡の内容から再現された平城京の頃の食事

平城京の時代は、大宝の遣唐使の時代。初めて「日本」と名乗るようになったのは、この頃からで、種子島から東北地方くらいまでが日本の領土だったそうな。


馬場さんのお話しで印象的だったのは、木簡の保存写真は エイト バイ テン(8×10インチのフィルム)で撮っているということと、
古代日本人にとって「共食」は濃密な人間関係を結ぶことだった、という話し。
平城京の時代に、その土地の食べ物を食べること(その土地の火で調理した物を食べること)は、その土地に属すること、土地を支配すること、といった意味があったそうです。

食べることが人間関係に直結する、今でもそうですよね。
誰かと一緒にご飯を食べることは、良い人間関係を築くことにつながります。だったら、やっぱり、誰かが誰かのためにちゃんとつくったものを、どうでもいいような話しに興じながら、卓を囲む人たちの顔を見て、「おいしいね」と口にしたい。と、そんなことを思いました。

人が食を支え、食を支える人の手はやさしくてたくましい。


今夜の晩ごはんは、肉餃子とチーズ餃子と茄子煮込み、中華スープをつくりました。白ごはんと矢沢のビール付きです。

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コメント

辻本の親分さん、こんにちは。

先人の智恵を知ると、ナルホドと感心することが多いですね。
私はとっても「おじいちゃん子」でした。
今はもうすっかり年寄りになった両親が、生きているうちにいっぱい いろんなことを聞いておこう、っと。

可奈さん、こんにちは。

居眠り‥‥つい、してしまいます。
そう言いながら、新幹線や列車の中では、あんまり眠れないんですよね。

京都、本日よいお天気です。
天丼が食べた〜い。

豆は容積、野菜豆は束・・・う~ん、確かにそうですね。昔の人は、賢いです。

のどかさんが居眠りしてて、「豆ですよ」って起こされたところは、つい笑ってしまいました。
貴重な話なんだから、ちゃんと聞かなくちゃと思っていても、なんだろう?話し方とか抑揚、声のトーン?などが影響するんでしょうか?
よく私にも経験あります(∋_∈)

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